雑野なる言葉があるのかどうか知りませんが、どこにでもある殺風景な風景です。ぼんやりと暗示されたものから浮かべたイメージです。
荒れ野と木立ちがあり、人も歩かない。私は何故か殺風景が嫌いではありません。無論、好きとまでは言えないのですが、その荒涼とした感じは何故か惹きつけるものがあります。
これはもしかしたら演歌と似ているかも知れません。悲恋や日常の苦しい想いを歌う時、人は意識は何故か厳しい北に向かいがちす。
といっても、私は演歌は苦手なので申し訳ないのですが。
前回と雰囲気が違っていますが、やっていることは似ています。ちょっとしたヒントがあれば、そこからぼんやりとしたイメージをまず描いて、それからどう進めていけるか、そんな描き方です。これは自分の脳に浮かんだイメージを定着する訓練というものでしょうか。結果的にこの場合は雑野になりました。
このような描き方に意味を見いだせない人も多いと思います。しかしそれなら、現地でのスケッチも、その場所を描き写してくることに何の意味があるかと問われれば、すぐに答えを用意できるでしょうか。私にはあらゆることが疑問です。過去にも記しましたが、どこで何を描こうが、結局私達は自分の脳にあるイメージを描いているのです。
絵を描く人は得てして自分を主流に置きたがります。それがないとモチベが上がらないのかも知れませんが、自分は宇宙に散らばっている無数の点に過ぎないのも客観的な事実です。絵を描く思考はあちこちに散らばっており、興味深い思考に巡り合ったら嬉しい気分になります。絵かきの思考は絵そのものに語られております。
そんな意味では、一見勝手気ままに描いているかのように見える現代アートに、どうも最近は惹かれるものがあります。
本日もありがとうございました。