風の舞い--モノクロームの水彩画

裸婦デッサンや単純化を目指したイメージスケッチを楽しんでいます。

迷い込んだ場所

既に何年も経って、形の上ではとっくに解決しているのにどうにも気になる事故や事件があります。その一つが山梨のキャンプ場から女子が行方不明になったあの事件です。事件と言うよりは事故で一応は決着が着いているのですが、 未だに不信に思う人たちが色々と意見を言っています。

 

迷い込んだような不安な森の印象

 

私が幼かった頃を思い出して重ねてみると、随分寂しいところまで少なくない距離を歩いてきてしまって、そこから更に先を行くことがどうしても腑に落ちないのです。心細くなったら引き返す。普通ならそういう行動をとるものだと思うのです。だって、先は暗くて怖いのだから。殆ど行き止まりみたいなところで、どうしてそこから先へ行こうとしたのか。子供は上に登って行くものだというのが別の子供の件で広く認識されて、そうなのかも知れないとは思うのですが、なにしろ年齢が違います。

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野火

怪しげな雰囲気ですが、炎はちょっと描いてみたいものでもあります。映画などではドラマチックなシーンを盛り上げる効果があって、ホラー系の映画では森と炎が欠かせません。

 

 

こういうのは半ば以上は偶然に任せる必要があって(不透明はまたちょっと違いますが)、 色々やっている内の偶然がそのように見えた場合、しっかりそれを覚えて置いて後に活かせればいいなと思います。実際私たちの日常は偶然の積み重なりで、絵もきっとそうですね。多くの試行錯誤と気づきが大事なのだと思います。

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隧道への道

ずいどう--なんて読み方を昔教えてもらっていたのにすっかり忘れてしまって--たいどう--なんて言って丸善で本を頼んでしまった。あちらさん、知っていたのだろうけど客に恥をかかせないように調べて本を出してきてくれました。

 

工事用トンネルへの道を抽象風に描く

 

吉村昭さんの小説に--高熱隧道--と言うのがありまして、戦前の、まだ労働環境など劣悪な時代に苦労してトンネルを掘るノンフィクションです。危険な作業だから高い賃金を払わないと人が来ない。岩盤の温度が160度を超えているようなところもあって、労働者は水をかけてもらいながら進んでいく。それでも皮膚は焼けただれると、そんなことのようでした。正体不明の突風などもあって、犠牲者は300人以上。黒部の発電所を建設するための工事だったようです。

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クリーフ--2

落ちたら助からないような裂けめの続きです。第二弾。なんて言う程のものじゃないけど、最近なんだかですね、あちこちガタが来て、それも全体的に来てしまってやる気なんて全然ない。

危険な裂けめの印象を描く

クリーフ 2

どころか人生の活路すらそろそろ見えなくなりつつあって、飲んだくれという程じゃないしアルコールそのものはコントロールしつつだけれど居酒屋ばかり通っているこの頃です。

池袋に朝の七時からやっている古い居酒屋があって、今もあるのだけど、都内に居た頃は徹夜で仕事を終えて納品の帰りによく飲みに行ってたことがあったのですよ。するともう昼前に皆出来上がっちゃってて、私は納品帰りだから言い訳は立つけど、他の連中を見ていてよくもまあ仕事もしないで朝から飲んだくれているものだと当時は思いましたが今になってみると分らんでもないです。田舎じゃ朝から飲ませてくれるところがないから行かないだけですもんね。

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野原暮色

幼い頃の私の住まいは平屋の長屋だったし(牛小屋を改築したとかでした)、周辺にある家も大抵は平屋でした。建物そのものが少なかったので、市街地から外れるとこんな雰囲気があちこちにありました。

筆跡を残して野原を描く

そもそも子供の頃はこっちの視線が低かったから、世界は違って見えていたと思います。子供の視線ではちょっと高い所に登らなければ。風景は決してこのようには見えません。周辺の事物と地平線がかなり重なるので、世界は狭く見えていたかも知れない。逆に思えるかも知れませんが、周辺しか見えないことが多いですからね。

ぼうぼうと生える草はもっと背が高く、遊んでいても時には原っぱの中で隠れてしまう程でした。バッタがいっぱい飛んでましたね。歳を喰うとそういう風景が妙に懐かしくなります。

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カエルが鳴くから

池遊びをしていて夕方になったらそんな歌を唄ったことがあります。何人か居ると大抵誰か一人そんなことを言いました。もう全然記憶ないですけど、カエルって夕方になると鳴くのでしたっけ。

 

 

どこかにカエル一匹描いてやろうかと思いましたが、そこで失敗するのが日常なのでやめました。

この頃は子供の頃の記憶に引きずられて描いています。するとどうしても池や沼が多くなるのですね。子供は皆カエルを掴まえてザリガニ釣りの餌にしていましたが、カエルさんも迷惑だったでしょうね。迷惑どころじゃないね。

小学校に通うようになる直前まで守口市の外れに住んでいたのですが、驚いたことに近鉄バスが当時も門真と天王寺を結んで走っていまして、そこからよく門真にも天王寺にも出かけました。京阪バスに乗れば土居へ行けたと思います。母に連れられてよく土居へ買い物に行った記憶があります。

門真では某家電メーカーの大きなネオンの看板が見えていました。初めて就職したのがその家電メーカーで、幾つもある事業部の一つでした。

守口と門真は隣り合わせていて、後で知ったのですが、その事業部から当時住んでいたところまでは歩いていも知れている距離で、分かっていたらきっと歩いてそこを訪れたと思います。ストリートビューを何気に見ていて気付いたのです。頭の中の地図ではずっと離れて居るのでした。

随分昔の記憶も場所がそんなに近くだった。それを知らないで働いていた。なんだか次元を感じさせる不思議な感覚です。双方遥かな昔です。

ところでカエルってかわいいイメージがあるのですが、近頃動画を眺めていると、連中はなんでもパクつくのですね。蜘蛛でもなんでもガブッと行く。

ちょっと引きますよね。

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追。

この記事は22年11月の記事の画像に筆を入れて描き足したものです。

水面の下の世界

池や沼ではなくても、単なるぬかるみの水溜まりの水面をぼんやり眺めたことってないでしょうか。草ぼうぼうの近所の空き地に雨上がりなんかで水溜まりができるとあっちやこっちがキラキラと輝いて、気にも留めなきゃ何でもないのだけど、私には結構幻想的に見えたりもしました。

水面の反射を描いてみる

ぬかるみの水溜まり

池とか沼では水面が大きすぎるのだけど、ぬかるみにできた水溜まりは小さな小窓が開いて、その向こうに別の世界が拡がっているような錯覚を抱きました。鏡の向こうの世界みたいなものですね。

この場合、水面が小さいから良いのですね。そこに人知れない小さな世界があるようで、大人になってもその性格を引きずっていますが、ひとりでそんな空想に浸るような子供でした。キラキラをあまり眺めているとくしゃみをするのですが。

いずれはなくなる水溜まりなので、まさか生き物は居ない(微生物を除いて)。しかしそれが居る世界があったのです。ぬかるみの水溜まりではないけど、海辺の磯にはそれに近い世界がありました。磯の岩のへこみ(小学校の小プールくらいかな)に海水が溜まっていて、そんなところに魚が結構沢山泳いでイソギンチャクなんかもいまして、それは大海と切り離された完全に独立した世界でした。きっと満潮時に波に洗われるか浸かってしまうのでしょう。

私は大海よりもそっちが興味深くて、ちょっと潜ってやろうと思いましたが、結構底が深くて怖くなって止めました。でも潜ったらきっと幻想的だったに違いないと今でも思っています。

水面というのは、世界を分ける境界線でもありますね。異次元なんてないですかね。