風の舞い--モノクロームの水彩画

裸婦デッサンや単純化を目指したイメージスケッチを楽しんでいます。

静かなる川

静かなるドン--なんてのがありますが、あれはロシアの小説のタイトルをもじった漫画でしたっけ。漫画の方は静かな親分のことかな。私は読んだことないですが、これはそれとは関係ありません。川の深きは静かに流れる--そんなところです。

モノクロで川を描く

底の深いところでは流れはゆっくりになることを、底の深い人は軽い反応をしない、やたらと騒がないことの例えに使われます。熟慮した上でしか判断しないので--肯綮に当たらぬことがない--と例えられたりします。

肯綮--というのも難しい言葉ですが、物事の勘所とでも言ったらよろしいでしょうか。軽々しい理屈を並べる人の対極を指しますね。

しかしここではそんな大それたことは関係ありません。八月ももう終わりに差し掛かってきました。意外にも仕事が多くてようやく先日ひと息吐きました。でも気が付くと、ああ、今年も夏が去って行くのかと、そんな感じです。

八月の濡れた砂--というのもありました。今見ると映画はどうってことないのですが、石川セリさんの歌は響くものがあります。俺様の濡れた砂は遂に今年もないのかと、まあこれは毎年思うことですが、あーやっぱり今年もねって、夏が去っていくときは妙に寂しいものです。

小学生の時、母方の知り合いを訪ねて近くの川で遊んだことがあります。父方は海、母方は山でした。昔ですからどこでも水が澄んでいて川遊びができました。大方は足の届く浅いところですが、川が緩やかにカーブしているところでは急に深い部分があって、それを知らなかった私はそのまま立てると思って泳ぐのをやめました。

するとそのまま底の方へ沈んでしまいました。もがいても足が届きません。しかしそこで慌ててブクブクとやらなかったのが良かったと思うのですが、息を止めてゆっくり水をかくと頭が上に出ました。ほんの数秒でしょう。

周りを見ると誰も気付かずに遊んでいました。このことは黙っていましたが、子供の頃は危ないことが沢山ありました。今生きているのは、そして遊び半分で他人を傷つけることがなかったのは、殆ど運だとすら思えます。

そんなこともあったのですが、しかし夏の多くは良い思い出として残っています。夏はそういうものです。コロナで散々ですが、残りの夏で良い思い出を作ってください。

本日もありがとうございました。