風の舞い--モノクロームの水彩画

裸婦デッサンや単純化を目指したイメージスケッチを楽しんでいます。

作為と偶然性の間

昨日は慣れないことをやってお茶を濁しましたので、気を入れ替えてやりたいと思います。

これは常日頃私が不思議に感じていることです。無作為な形を描いているようでも、現実にはないような物を描いても、なる程の人とそうでない人との違いは明白にあります。

何故でしょうか。

水面の模様を描く

この絵は以前から申し上げている、形抜きの練習です。抜くべきところを塗り残す練習です。いわゆるネガティブペイントです。どこを押さえてどこを抜いて、という部分は一応はあるのですが厳密ではありません。多分に偶然性によります。

 しかしそれでいて、上手い人とそうでない人とではその偶然性が違ってくるのです。

絵は上手い下手ではない? 心だ?

言葉遊びはここではやりません。よく修練して説得力のあるものが描ける人は皆上手いのです。そこへ一歩でも近付きたい思います。

具象であると考えれば、何を描いたものであるかを説明する必要があるかも知れません。しかし、現代アートや抽象画として見れば必ずしもそれは要りません。

砕け散ったガラスの破片や、うっかりこぼして水の跳ね散った模様が見事にアートに見える場合があります。それらには作為がないので、それも一因だと思います。象やお猿さんが描いた絵が妙に面白かったりするのもその辺でしょうか。

人間である限り作為はなくせません。これは宿命です。従って一時的には絵はつまらなくなります。しかし修練によってそれは超えられると思います。現実にそのような絵を何点も私は観ています。

その意味で、幼児の絵はとても魅力に富んでいます。その部分を矯正するかどうかは議論のあるところですが、私は大切にしたいと思います。焦らずともいずれ人はその位置から出ていくのです。

本日もありがとうございました。